NPO法人 宇宙船地球号 補足サイト

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ケース1 36歳女性

国際機関 国際連合(UN) 国連ボランティア(UNV)

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A. 名前

   わたはし ひろこ

B. 年齢

   36歳

C. 性別

   女

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D. 現在、所属している(派遣されている)組織の名前

   国連ボランティア(United Nations Volunteers: UNV)

E. 所属・勤務されている(派遣されている)期間(予定)

   2年間(予定)

F. その組織を、組織のタイプで分類するとすると

  a. 国連系

G. あなたの行っている活動を内容で分類するとすると以下のどれですか?

  d. 医療(母子保健、感染症、公衆衛生、他)

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H. 現在いる組織に入る直前までの経歴

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  a. 生まれた場所、両親の職業

   出身地:福岡県

   両親の職業:父:自営業、母:専業主婦
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  b. 小学校時代のクラブ、趣味、好きなこと

 趣味は特に覚えてないなぁ。放課後近くの公園でドッヂボールをやったり、とにかく男子女子混ざって外で遊んでいたと思う。町内にバレーボールチームがあって、9人制のセンターを守ってた。好きなテレビはプロレスと音楽番組。ザ・ベストテンはかなり流行ってた。録音できる小型ラジカセでテレビから流れる曲を録音してた。その当時は録音方法もいい加減で出力された音をそのまま録音していたから、両親の話し声が入ったり、わざと父が雑音を入れたりしてその度に怒ってた。ピンクレディーや松田聖子、中森明菜、そうそう、たのきんトリオのマッチが好きだった。
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  c. 中学校時代のクラブ、趣味、好きなこと

 バス通学だったので帰宅部。そのころ流行っていた洋楽では、カルチャークラブやビリー・ジョエルが好きだった。まだLP盤の時代。お小遣いが少なかったから、ラジオ番組から曲をカセットテープに録音して繰り返し聴いてた。当時はミニコンポと呼んでたけど、ステレオの小型化したやつ、それのちょっと値の張るやつを買って、カセットテープもちょっと高価なものを使ってた。身近でできるこだわり。邦楽はYMOや山下達郎くらいは聴いてたかな。
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  d. 高校時代のクラブ、趣味、志望大学とその理由

 部活は3年間茶道部所属。運動や芸術が不得手だったのと、身につけて損はないと思ったから。和菓子も食べれるし。予想以上に面白かったよ。作法の先生が可愛らしいおばちゃまだったし、その女性の教え方がとてもうまかったんだと思う。なぜいろんなきまりがあるのか、順序があるのかを理論付けて教えてくれたので覚えやすかったし、がんばる気力が続いた。

 あとは、映画をよく見に行ってたなぁ。地方の映画館は2本立て、3本立てが普通で、メインの映画に付いてくるB級映画の方が感動した、っていう時もあった。例えば「トップ・ガン」はかなり人気の映画だったけど、先入観が強かったのか、僕は観た後はあまり感動がなく、同時に上映された「プリティ・イン・ピンク」という映画が僕にはヒットで、その日2回観た思い出がある(その頃は上映ごとの入れ替えはなかったので、朝から夕方までずっと映画館の中なんてこともあった)。一時期は凝って週末になるとパンやおにぎりを買って朝からずっと映画を観たり、映画館のはしごをしたこともあった。「将来は映画評論家になる」とその時は夢見て通ったけど、やっぱりお小遣いが足りなくて途中で断念。そのうち映画館に行きもしなくなってしまった。

 進学校で僕の成績はいつも中の下をさまよってた。まわりはみんなテストの点を上げるのに必至な人が多かった。体育会系の部活に所属している生徒はそれなりに部活に力を入れてがんばっていて、それも特技を向上させているようで羨ましかった。自分もそれなりにがんばっていたはずなんだけど、思うように成績も上がらず、高校3年間はぜんぜん面白くなかった。国語や英語は全く苦手、中学までの数学はテストの点数は良い方だったから自分は理系だと思っていたんだけど、高校に入り「微分・積分」等いろいろ教科書が薄く分かれていき始めた頃から全く理解できなくなり、理科も生物しか分からなくなっていたから、消去法で文系行きを決めた。文系クラス、しかも国語や英語が妙に得意な生徒ばかりで、女子がクラスのほとんどを占めているクラスに入り、自分が低レベルに位置している気がして居心地が悪かったなぁ。まわりがみんな敵に見えたし、それまで親しくしていた友人はほとんど理系に行ってしまい、話しをする機会も減って教室で暗く過ごしてた。国語、英語は赤点に近く、数学や社会は普通並み。どの教科もパッとせずに悶々としてたから、その頃から精神的に不安定になっていったと思う。今思い出しても、高校時代は暗い、嫌な思い出しかない。

 当然、進学して何を学びたいのかも特定できず、進路もどうしたものかと悩んでいた。そんな精神状態だったから、唯一「心理学」という言葉が魅力的に聞こえたし、言葉から思い浮かぶイメージだけを頼りに「心理学を学んだら自分自身の精神状態が普通に戻るかも」なんて勝手に考えて、希望専攻を心理学にしたんだと思う。それと関東で暮らしたい、という一心で。

受験勉強中もやはり感情の起伏が激しく、ろくに勉強が手につかなかったけど、幸運にも自宅の近くに漢文を教えてくださっていた先生が住んでおり、時々相談させてもらっていた。その先生が「とりあえず悩むのは一時休止しろ。受験が終わって大学に行ってから、悩むだけ悩めばいい。受験に失敗して浪人したら、お前の性格上、立ち直れなくなるだろうから。」と言ってくれた。そのお陰でとりあえず高3の後半戦は受験勉強をして、何とか希望大学に合格した。

確かにそのころは僕の性格や考え方が「失敗したら立ち直れない、路頭に迷うかも」というような全面的消極型だったから、その先生の一言でなんとかその場をしのげたんだと思う。感謝してる。

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