NPO法人 宇宙船地球号 補足サイト

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国際機関 02 国連 Peece Keeping Best Practice 勤務 小野京子さん

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12/5/2006 at New York
インタビュアー:ETSボランティアスタッフ山賀緩子(ヤマガヤスコ)
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世界の紛争地帯に派遣される国連平和維持軍(PKO)のヘッドオフィスである、
ニューヨーク国連本部Peacekeeping Best Practicesに、
2006年秋、赴任された小野京子さん。
今回は、まだ赴任されて間もない小野さんの貴重なお時間をいただき、
これまで歩んでこられた道についてお話をうかがいました。 
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■ 第二章 ■ 高校〜大学、アメリカから日本へ

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一時はプロを目指したバレエ!

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山賀: またお父様の転勤があったということは、高校受験は経験されていない?

小野: 中3の途中でいきなり父の転勤があって。なので、アメリカでいきなり高校受験をしました。またアメリカに戻って、ワシントンD.C.。高校を卒業するまでの2年半いました。

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山賀: そのときはワシントンD.C.の現地の高校に入って?まだ英語はキープしていました?

小野: 現地校です。英語は、かつての日本語と同じで、しゃべり聞きできるんですけど、ライティングができないですし、高校の読み物も全くだめでしたね。だから大学院時代もすごく勉強しましたが、あの1年間は、辞書がボロボロになるくらいまで、本当にやりましたね〜。すべての単語を辞書引かないと意味がわからないですからね、調べているだけで時間がかかります。それを高校のレベルで全教科やって。

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小野: でも、まだバレエを続けていました。アメリカの学校のすごいところは、バレエをかなり本格的にやらせてくれたんです。許可が出た子たちに対して、学校のスケジュールを特別に凝縮してくれるんですよ。なんで、毎日2時くらいまで授業を凝縮して受けて、それから2時から6時くらいまで毎日バレエやっていたんです。

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山賀: 凝縮ということは、他の生徒たちと一緒に授業を受けていないんですか?

小野: アメリカの学校というのは、能力によってバラバラに授業受けるんですよ。個人のスケジュールがあるんです。大学に近いですね。で、通常だったら授業の間があくんですけど、そこを凝縮して2時までの間に一気に授業を取るんです。

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山賀: もうその頃には相当長くバレエをやられていたことになりますね?

小野: ええ、6歳くらいから始めたので10年くらいですよね。

山賀: そっちの道へ行こうと考えませんでした?

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小野: 考えました!考えました!日本で松山バレエ団の支部に通っていたんですけど、日本にいたらそのままもうちょっと続けていたかもしれないですね。でも、アメリカで通っていたバレエ学校は、プロを目指している人ばっかりだったので、そこでやっぱり現実的に……。バレエで言うと、「主役」ではなくて、「群舞」だったら可能性はあると判断したんですけど、「主役」になるのはありえないなと。やっぱりそれは日本人と西洋人の体型の違い、まずは背が高すぎるっていうのもあるし。

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山賀: 小野さんは日本人女性の平均より少し高いくらい(170cm)。でも「高すぎる」!?

小野: 男性とのバランスを取らなきゃいけないというのがあるので。あとは足の長さの違いとか。それで、毎年冬と春、公演をするんですけど、現実を見て……。バレエは命が短いですし。

山賀: うーん、確かに。

小野: ケガしたらおしまいです。高校3年の受験の準備をする頃までは、相当真剣にやりましたけどね。

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山賀: じゃあ、そこですっかりやめちゃったんですか?

小野: その後、大学で日本に帰ったとき、ちょっとは続けていたんですけど、やっぱり精神的に難しいのが、毎日毎日踊っていてできたものが、週に1回くらいになるとだんだんできなくなるわけですよ。そうすると、「うーん、これを本当にこれをただやっているべきなのか?」っていう葛藤があって…。

山賀: かえって、「これもできなくなった」「あれもできなくなった」って、悲観的になっちゃう。

小野: そう、そういうネガティブな感じがあって、結局やめました。今は観客側に座っています。そして、たまーにオープンクラスに参加してます。

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「日本人じゃなくなる?」

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山賀: ワシントンD.C.の高校を卒業して、大学でまた日本に帰ったとのことでしたが、どちらへ?

小野: 東京です。そうですねえ、振り返ってやはり人生の分かれ目だったなあと思うのは、最初アメリカの大学に行くつもりで、アメリカの大学用の受験勉強をしていたんですね。で、ある人と会話していたときに、「大学で日本に戻らないと、日本人じゃなくなる」って言われて…。

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山賀: 確かに、若い頃に長く離れていると、感覚的に自分の国のことがわからなくなるかも…。

小野: で、もしアメリカでまた勉強したいと思ったら、大学院にでも戻ってきたらいいって言われたのが、すごく強烈で。そこで一気に「日本へ帰ろう!」と。で、決めて、結構最後ドタバタでしたね。確か願書を出す本当にギリギリで。

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山賀: センター試験を受けられたんですか?

小野: それは受けていなくて、帰国子女枠っていうのがあったんですよ。それでもまあ筆記試験とか面接とかあって、それで受かった。いつもなんかギリギリなことやって、ドタバタでいくつか大学をまわって。私は結局慶応に行ったんですけど、「ああ、いいな」と思って。

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山賀: 専攻は?

小野: 専攻は社会学の中のコミュニケーション学です。最初は「政治」とも思ったんですけど…。やっぱりは自分の日々のコミュニケーションに興味がありましたね。異文化間の。政治というと、なんとなく抽象的であまりにもかけ離れた感じがあって。あとは、「普及学」。どうやってモノが普及するかを研究していた先生がいて。

山賀: それはビジネスとは違う…?

小野: メディアが主ですね。コミュニケーションのツールとしての。

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後でこの経験が生きる!?大学時代のアルバイト

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山賀: それで卒業まで東京で?途中でまたどこかへ?

小野: いました、いました、4年間(笑)。

山賀: まあ、それくらいになるともう親の転勤は関係ないですもんね。

小野: そうですね。もう大学生になっちゃうと。しかも、父が今度中東に転勤になっちゃったので。アブダビというアラブ首長国連邦の首都に。それで私は4年間東京にいました。

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山賀: 勉強の他に学生時代していたことはありますか?まあ、バレエもやめて。

小野: 私、面白いバイトをやっていて。あれは公益法人で、「国際交流サービス協会」というところがあって、そこで通訳バイトを。資格はないので本当の意味での通訳ではないんですけど、来賓やいろんな省庁のお客さまが来るときに、お迎えしたりだとか東京案内したりだとか。学生ながら、いろんな人たちとコンタクトをとって。すごく面白かったですね。

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山賀: 滞在中のお世話役のような?

小野: そんな感じです。とにかくいろんな世界、いろんな分野の方が来たので、「こういう分野があるんだ」「こういう人たちがいるんだ」って知ることができました。

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山賀: その仕事は、どうやって知ったんですか?

小野: アルバイトを探していたときに、父が「こういう協会があるそうだよ」と教えてくれて、それでコンタクトをとったのがきっかけだったと思います。それで面接に呼ばれて、リストに載っけてもらって。

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山賀: 入るときに何か条件はありました?語学力はもちろんでしょうけど。

小野: そうですね。たしか面接があったような…。結構やっていらっしゃった方っていうのは通訳の資格を持っているお母様方が多くて。パートタイムでできますし、スケジュール調整も自分でできるので、将来的に悪くないなと思ったのは、通訳の資格を取って、数日決まった日だけやれば、とても快適に仕事と両立できる、ということです。

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